「発達障害は甘え」か?「発達障害を言い訳にするな」は正しいか?

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「発達障害を言い訳にして甘えるな!」という人と「発達障害にはもっときちんと配慮するべき!」という人が、今日も元気にTwitterで互いに罵倒を繰り広げています。
いずれの立場にも健常者、診断済み当事者、グレーゾーン当事者、当事者の関係者までおり、それぞれの立場で好き勝手な意見を発して、いつも何の議論にもなっていません。
わざわざそんなところに近寄って140文字の意見を表明する意味もないので、自分のブログに自分の考えを書いておきます。

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私自身の状況

私は30代の男性です。
「大卒正社員に要求される仕事のレベルが徐々に上がっていくのに全くついていけなくなり、発達障害の検査を受けても診断はつかずグレーゾーン、鬱病の悪化により10年目にしてサラリーマンからドロップアウト」という経験を経て、「別の病院で受けた検査でASDの診断がつき、精神障害者保健福祉手帳の3級を取得」という流れで現在に至ります。

現在は在宅雇用で働いており、「業務指示が全て文字で飛んでくる」「相手の顔と名前が判別できなくても問題にならない」「人の視線に恐怖を感じずに仕事ができる」というメリットをフルに享受し、なんとかそれなりのパフォーマンスを発揮できています。
しかし、一般就労の会社員時代には「なぜ皆ができているこんなことが自分にはできないのか?」という自己嫌悪にいつも苦しんでいました。

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私の基本的な考え

また、大学時代からの友人の中には、「充実した学生生活を送り、優秀な学業成績を修めながらも、就職してからはどのような工夫をもってしても自分が理想とするレベルに仕事を進めることができない」という人もいました。
彼は私より数年先んじて発達障害と診断され、障害者手帳を取得しましたが、障害者雇用でもその能力を満足に発揮することは叶わず、「ギャップに耐えきれなかった」というメッセージを残し、一足先に地獄へと旅立ちました。

こういうときは「天国に旅立った」と表現するんじゃないかって?いやあいつが天国行けるわけねえから。俺もしばらくしたら行くから待っといてくれや。
ともあれ、彼の苦しみは察するに余り有るものです。

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当事者の成功体験記を否定する冷笑系発達障害者の有害性

こういった経験をもってなお、私は「発達障害を言い訳にするな!」寄りの考えに立っています。
それには理由があります。

「発達障害だけどこんなアイデアで生き辛さが解消した!」「発達障害の人を雇用して職場でこんな工夫を取り入れたらみんなが働きやすくなった!」という成功事例に対し、「ガチの発達障害ならそんなにうまくいかない、この人本当に発達障害か?」「こんなのはレアケース、発達障害全般に当てはめるのは危険」「本当の弱者が排除されてしまう、これこそが差別だ」と騒ぐ輩の多いこと。
この手の批判意見を発信する人たち(その多くは発達障害を言い訳にして何もやっていない)に対し、私と友人の考えは一致していました。
こんな連中がいるから差別が無くならねえんだよ。

かつて、「鬱病ってホントは無いんでしょ?笑」というような言動を平気でとる人が一定数存在しました。
昔よりはかなり減ったものの、未だ絶滅はしていません。

そして現在、それと同じノリで「発達障害なんてただの甘えでしょ?笑」みたいなことを言う人がいます。
当事者の身内から企業の上層部まで山のようにいます。
これを減らしていくためには、定型発達者と発達障害者の認識の溝を埋める必要があります。

さて、この流れで内容に触れておきたい、私があまり好きではない書籍があります。
栗原類のエッセイ、「発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由」です。

【当事者の感想】栗原類「発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由」
最初に正直に言ってしまうと、私は話題になった栗原類の著書「発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由」があまり好きではありません。 しかし、巷にあふれる凡百の発達障害関連書籍が言及していない、きわめて重要な点に触れた書籍であることも事実です...

言ってしまえば、これこそまさに「発達障害における汎用性のないレアケース」の極致でしょう。
低身長に強いコンプレックスを持つ私は、正直最初こう思っていました。
「身長180cmオーバーのなんでも着こなせちゃうハーフのモデルに、発達障害だからといって何の苦労があるんだ?」

しかし、この本や、同じ記事で紹介した母親の栗原泉の著書で私の目を引いたのが、「発達障害当事者は周囲に合わせる努力を続けなければならない」「人の2倍3倍努力してやっと人並みなんだから、それ以上に努力するのが当たり前」という記述でした。
そう、社会や組織の構成員として生きていくのであれば、障害があろうがなかろうが、自分にできうる範囲の最大限でそこに適応するための努力をするのは必要最低限のことです。
そしてこれこそが、健常者と発達障害当事者の認識の溝を埋めるうえで一番重要な要素だと私は考えます。

発達障害の成功事例を叩くのが大好きな人へ

「でもあの人は私より症状軽いじゃん!あの人の方が人生楽じゃん!」と言いたくなるのは分かります。
私の頭にもそんな考えが巣食っていることは否定できません。
「みんな楽しそうに生きているのに何で自分はこんな惨めなんだ、こんな人生なら海の底の都の方がマシだ」と、友人と同じ選択肢をとろうとしたことは1度や2度ではありません。

しかし、これに関する答えだと感じたのが、宇垣美里のこんな発言です。
「人それぞれに地獄があると思うんですよ。私には私の地獄があるし、あなたにはあなたの地獄がある。」

明らかな困りごとがあるのに診断がつかなかった人、もっと軽い症状で手帳が取得できた人、人前に出るのも困難なレベルの障害を抱える人、様々なレベルの発達障害当事者がいます。
そして、会社で働くという枠組みに限らず、障害者も健常者も、それぞれのフィールドで各々がそれぞれの地獄を日々生きています。

その状況において、レアケースであろうが汎用性がなかろうが、「発達障害だけどこんな工夫でなんとかなった」という個別のサバイバルストーリーの蓄積を否定して何になるのか?
その否定は、先人が創意工夫をこらす中で形作られてきた就労への筋道に泥を被せる行為でしかありません。
成功者を叩き続けることで誰も成功事例を発信しなくなったら困るのは誰だ?

私が望む「優しい社会」とは、それぞれのやり方を認めてくれる社会。
その実現のためには、個々の成功事例の蓄積が不可欠であり、健常者から「どれだけ配慮しても発達障害は文句ばっかり!キリがない!」と思われることだけは絶対に避けなければいけないと思うのです。

努力した者の人権を「自分が不幸だから」という理由で侵害するのは許されません。
人権を獲得するために先人がやってきた努力を水泡に帰すような言動は慎むべきです。
健常者に擬態する努力を一切することなく配慮だけを要求するのは、まさに甘えに他ならないと私は考えます。

私はこの3つを日々自分に言い聞かせ、嫉妬を必死に押し殺しながら生きています。
何も考えず成功者を誹謗中傷する人生はさぞかし気楽でしょうね。

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