【健常者に擬態】発達障害と生きていくヒントを体得した話

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「健常者に擬態」。
ネット上ではしばしば目にする表現ですが、物凄く嫌いです。
しかし、私は高校生の頃、「健常者への擬態に成功した」としか言いようのない経験をしたので、その時のことを記録として書き残しておこうと思います。

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思春期の嫌な思い出

私は公立小学校でいじめに遭い、その環境から逃げるように中学受験に挑戦。
そして幸運にも、地元の有名な国立中高一貫校に合格しました。
この中高の時期も良い思い出ばかりではないので、普段はあまり考えないようにしているのですが、当時のエピソードを思い出しながら書いてみます。

思い返せば、私はとにかく対人スキルが低い子でした。

当時は「自分が相手にとって不快な言動をとっている」ということがそもそも認識できておらず、対人関係構築が致命的に下手でした。
中学生になっても、人と話している途中でその場を突然立ち去ったり、逆に人の話に突然割り込んだり、ということをしょっちゅうやらかす始末。
当然のように、クラスの中ではかなり孤立していたと思います。

とはいえ、中二病的な「俺は孤独な存在だから…」がいつまでも続くならまだしも、さすがに高校生にもなると「これはまずいのでは?」と自覚するようになります。
別に友達がたくさん欲しいとは思わない、思わないけど、どうも自分が位置しているこのポジションは思っていたのと違いすぎる。
端的に言えば、みんなに置いて行かれていることが明らかに分かるようになってきたのです。

例えば、小学生時代から塾が同じだった奴がスクールカースト最上位のグループで陽キャになっている
根暗同士でつるんでいたはずのオタク仲間にもいつの間にか彼女ができている
私はバンドをやっていたので「音楽仲間」はいましたし、そのコミュニティで楽しく過ごしていたつもりだったのですが、そこでも自分には音楽以外の話が全くできないことにようやく気付きました。

この状況に直面した私は、「自分が理想とする人間らしさ」を身につけるべく、ひたすら小説を読むという選択肢を取りました。
しかし、フィクションのストーリーは実生活に特段良い影響を与えてくれませんでした。
むしろ、理想の自分と現実との差を思い知らされ、余計にへこんでしまいました。

※当時はまだ発達障害など知られておらず、私自身に全く自覚もなく、「発達障害当事者向けの書籍で知見を得る」などという選択肢はありませんでした。
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人間観察ノート

そんな折、私は「人間観察」という単語を耳にします。

この言葉、ちょっと皮肉屋ぶった痛い奴が「趣味は人間観察です笑」とか言うときに使っていることが多く、あまりいいイメージではないでしょう。
しかし、私は初めて知ったこの言葉を文字通りの意味で受け止めました。
「そうだ!人間を観察すればいいんだ!人気者を観察して自分との違いを分析しよう!」

どこの学校にもいると思います。クラスの人気者。
男女問わず友人が多く、当然のように可愛い彼女がおり、学業成績のわりに教師ウケもいい、いつも皆の中心にいる羨ましいあいつ。
私は嫉妬と羨望を原動力に、格差に打ちひしがれながらも徹底的に彼を観察し、その言動をひたすらノートに記録しました(キモい!)。

こいつは俺が話しかけるとどんな風に応答してくれる?
教師や先輩に話しかけられたときはどうしている?
同じ人気者グループの奴と喋るときは?逆にほとんど付き合いのない奴が相手の時は?

途中からは比較のために、個人的にあまり好きではないクラスメイトも合わせて観察対象としました。
すると、徐々に「人気者」と「嫌な奴」の違いが鮮明になりました。
「そうか!人気者は誰に対しても朗らかに対応し、頼まれごとに嫌な顔をせず、必要に応じて冗談で返し、人の悪口を言わないんだ!!!」

ここまで読んで「え…当たり前じゃん…」と思ったそこのあなた、そうですよね。
でも、私にとっては、これはまさに驚天動地でした。

この時点で既に高校2年生になっていた私でしたが、この「人気者が人気者たるゆえん」の謎が解けたことは、人生で最大の衝撃でした。
なんせ、それまで何の本を読んでも書かれていなかった「人に好かれる方法」が、生まれて初めて目の前に可視化されたのです。

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観察結果を元にした「擬態」

そこから私は、ノート3冊分の人気者観察記録(キモい!)から抽出した要素を自分の言動に落とし込む作業に入りました。

ただ、この人間観察により、私は同時に「同級生相手にいきなりこれを実行したら『何だこいつ?いきなりキャラ変えてどうした?』と思われないかな?それは恥ずかしいし嫌だな」という羞恥心も身につけてしまっていました。
これでは実戦でのトライアンドエラーは不可能です。

じゃあどうするか、となれば自宅で一人で鏡を見ながらロールプレイを繰り返すしかありません。
表情作りだけでなく、自信なさげな早口の喋り方、猫背、人と目を合わせないよう下を向いて歩く癖も一朝一夕には直りません。

が、練習を続けるうち、私は少しずつではありますが自分が「今まで思い描いてきた理想の人間」に近付いていると感じるようになりました。
同時に進んだ「自分は今までなんと印象の悪いことを好き勝手にやらかしてきたのか」という自覚と反省。これを一種の自己理解ということもできるでしょう。
これこそまさに、「発達障害が健常者に擬態する」ということの本質的な要素なのではないかと思います。

そして、理想の立ち居振る舞いを繰り返し練習し、「これは自分には真似できない、不自然すぎる」という部分は削ぎ落として、私なりの「社交的モードに入った自分」は一応の完成を見ました。
このときにはもう高校3年生になっていました。

さて、この社交的モードをどこで試すか。

擬態の実戦投入、予想を超える効果

ちょうどその頃、電車通学で帰る方向が同じだった2歳下の後輩の女の子と知り合いました。
彼女は今で言うところの陽キャというか、とにかく人当たりがよく、誰にでも話しかける子で、偶然私も声をかけられて言葉を交わすようになったのです。
そこで私は、彼女に社交的モードで接するようにしてみました。

結果、この「社交的モード」の威力は想像を大きく超えるものでした。

彼女は私にポンポンと話題を振ってくれるだけでなく、他の女の子も話の輪に引き入れるようになります。
その交友関係は徐々に広がって、そのうち私は、校内で2こ下の女の子とすれ違うたびに「せんぱーい!」と手を振ってもらえるようになりました(同級生の女子とはほぼ全く会話がないにもかかわらず!)
今書いてても凄く嘘っぽいと思うんですが、妄想ではなくマジです。

とはいえ当然ながら、そんな状況は長くは続きません。
その後輩の女子にも、私の同級生からの「なんであいつと仲良くしてるの?学年が違うから知らないと思うけどあいつ超陰キャだよ?」という声が届き始めます。
さほど時間を置かずして、本来の私が「人と目も合わせられない挙動不審のヤバい奴」であったことを知った後輩たちは、徐々に私から離れていきました。

まあ私も受験勉強の真っただ中だったので、結果的にそれでよかったのだと思います。
ともかく、私はここで「人間関係は第一印象が9割だ」と身をもって体感したのです。

擬態によって得た人間らしさ

その後、私は知り合いが一人もいない大阪の大学に進学し、そこでゼロから人間関係を構築しました。
自分から話題を振るのは相変わらず苦手でしたが、土地柄もあってか積極的に話を振ってくれる人ばかりで、コミュニケーションはそこまで苦になりませんでした。
学業面などの苦労は多く、精神的に病んでしまった時期もありましたが、そこを切り抜けられた要因にはこの「社交的モード」を身につけておいたことが大きいと思います。

とはいえ、社交的モードをONにし続けるのは、精神的にかなり疲れます。
社会人になってからは、それによるストレスを感じる局面も多くなり、鬱病による休職や転職を繰り返す羽目になりました。
その後、「普段は社交的モード50%ぐらいで過ごし、必要に応じて100%に、不要なときはOFFにする」というのを身につけるのにはさらに10年近くを要しました。

こうして考えると、私は「これまでの半生をかけて健常者に擬態する技術を身につけた」と言えるのかもしれません。
最初に書いた通り、「健常者に擬態」という表現には嫌悪感があります。
が、「人間社会に馴染むために社会性の皮を被って過ごす」という行為を、「普通」への憧れと妬み、自己否定といった泥臭さまで含めて表現できる言葉はやはりこの「擬態」しかないようにも思います。

発達障害当事者が何の努力もなしに「ありのままを受け入れてほしい」などと言うのは甘えだと私は思っています。
だから私はこれからも健常者に擬態します。
あらゆる場面でその度合いを適宜切り替えながら、この擬態は私が正気でいる限り一生続くのでしょう。

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